香港から私たちが学ぶべきこと。

自由はどこにあったか。


コームナタ編集長のakiです。


今日7月1日は香港がイギリスから返還された日に当たります。ちょうどその日に香港で施行されたのがいわゆる「国家安全法」です。欧米の政府をはじめ様々な国に住む人、そして多くの香港市民が「香港の自由が奪われる」と懸念を示している中、この法律の制定が強行され、翌日に施行されるという早業でした。



この一連の流れで、私たち日本人が学ぶべきことは何なのでしょうか。



まず私たちが考えなければならないことは、香港が非常に分断された都市であるということです。私が運営するサイトの中で「香港ー『残りの550万人』はどこ?」という記事で取り上げましたが、香港には昨年の抗議活動に参加した数と同じくらいの貧困層が存在しています。


また、不動産価格は米ニューヨークや英ロンドンと比較しても異常に高くなっており、これらの不動産で儲ける富裕層と、自分ひとりが安住する場所を確保するのですら苦労する人たちの間には日本とは比べ物にならない差が生じています。



ここで、一つの疑問が浮かびます。国家安全法によってなくなるという自由は「誰のための」自由だったのでしょうか。それは香港に住むすべての人のためのものだったのでしょうか。


自由が、お金持ちが好き勝手やるための論理として使われていなかったでしょうか。




いま日本で起きていることは、香港の現状と非常に似ています。非正規雇用で働く人が労働者の半分近くいます。その中には働いても生活保護同然かそれ以下の暮らしの人もいます。子どもの7人に1人は相対的貧困です。一方で、富裕層はどんどん豊かになり、大企業はどんどん優遇されています。



明日の生活にも困っている人たちにとって、自分たちのことに目もくれず「自由」を叫ぶ富裕層はどう見えているでしょうか。

彼らにとって、自由を尊重するが貧困層はほったらかしにしている場所と、言論の自由はないが住む場所と仕事が与えられる場所と、どちらが望ましいのでしょうか。



香港で巻き起こっていることはこの究極の選択の中で揺れ動く、まさに現代社会の病理を克明に表す縮図なのではないでしょうか。



もし、日本でこれからも自由が守られるべきだと思うのなら、その自由が「すべての人に与えられている」ことを、単なる概念だけでなく現実として守っていかなくてはいかないのです。




お読みいただきありがとうございました。

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